いろんな考え方の人がいるんだけれども、

あれもあり、これもあり、
という視点がいいなあと思う。

そんなことを思いながらも、どうも気持ちのかみあわないひとと一緒にいるのはかくも気疲れのするものなのかと、ため息が落ちる。


私がエキセントリックだから(いけない)のかなあ、と少しだけ落ち込んでみたり、憤ってみたり、寂しい気持ちがしてみたりする。

やりとりの中で、ことばの表層がゆれて、こころの内側が顔を見せる。

例えば、私が〈美しい〉と思うものを彼女が〈美しい〉と思わないとき。

彼女が《美しい》と信じるものを私が《美しい》と思わないとき。

そこにどんな共感が必要だというのだろう?

【美しい】、と感じる心の動きを認める以外ないのではないだろうか。

私が彼女にその何かを〈美しい〉と認めさせるのは、単なる横暴だ。


共感を突き放すことは、一種、会話のマナーを冒すことにもなりかねず、危険な行為とは理解しつつも、自分の場合、あまりに強い無言の圧力を感じると、無意識に会話をブレイクダウンさせる方向へ回路が巡ってしまう気がする。



それぞれに尺度があっていいと思う。

ただし、私の尺度と彼女の尺度を変換できないことも多々あるものだ、と認める。

変換する必要のないものもあるのだということも。

結局は自分を大事にするにはどうしたらいいのか?ということなのかもしれない。

適度に可愛がりつつ、相手も可愛がりつつ、突き放しつつ。


相手を大切にするということは、つまり、自分を大切にするということ。

情けは人のためならず、という。


自らを枠に押し込めるような行為が、自分の首を絞めるようなことにならないように願う。